歴史ある赤坂・虎ノ門の地
歴史の表舞台にも登場した場所
国家戦略特別区域として、2014年の「虎ノ門ヒルズ」を皮切りに、2017年「赤坂インターシティAIR」、そして2019年9月にオープンした「オークラプレステージタワー」と超高層タワーの開業ラッシュが続き、すっかり街の景色が一変した赤坂・虎ノ門一帯。かつてはオフィスビルが建ち並んでいたエリアであまり散策してみたいというイメージではありませんでしたが、今回のホテルオークラの新装オープンによって、あらためて歴史ある街の魅力が掘り起こされたような印象です。
そもそもホテルオークラの建つ場所は、江戸時代は松平家の上屋敷。溜池は、その生活用水を支えるために作られた人工池であり、庶民の憩いの景勝地でもありました。明治時代になると、鹿鳴館や帝国ホテルの建設に携わった実業家、大倉財閥の初代・大倉喜八郎氏が大邸宅を構えていました。
「オークラプレステージタワー」の建設と併せて再整備された「オークラ庭園」に、その面影を見ることができます。江戸時代からの石灯籠が点在し、シンボルツリーであった大銀杏も移植。またクリスマスにはライトアップされていたかつての本館前のヒマラヤスギやクスノキの巨木なども、庭園内に移植されています。
まちに開放されているタワーの東側の「江戸見坂公園」の一角には、「中国同盟会発祥の地」と刻まれた記念碑が建てられています。1905年に、ここ大倉喜八郎邸の敷地内の洋館で、政治結社「中国同盟会」が結成され、孫文を総理に選出。中国革命(辛亥革命によって清朝が倒され、中華民国が建国された事件)の端緒となった、歴史的な会議が行われたのです。
「日本の文化を伝えるホテルを作りたい」
1964年に開業したホテルオークラ
ホテルオークラは、1964年の東京オリンピックを迎えるにあたり、二代目の大倉喜七郎氏が「日本の文化を伝えるホテルを作りたい」と情熱を注いで開業させたホテルでした。
戦前、帝国ホテルの総裁を務めていた大倉喜七郎氏は、敗戦による財閥解体・公職追放で、帝国ホテルの経営権を失ってしまいます。ホテル業への情熱を捨てきれなかった喜七郎氏は、アメリカ生活の長い野田岩次郎氏と組んで、世界に通用するホテルの創設を目指しました。
「西洋の模倣ではない、日本ならではの伝統美を体現するホテル」という志を抱き、1962(昭和37)年、徹底して和のしつらえにこだわって誕生した「ホテルオークラ旧本館」は、国家元首の滞在や、サミットの開催で国際的な名声を高め、帝国ホテルやホテルニューオータニと並んで御三家と称されてきました。
1928年に建設された登録有形文化財「大倉集古館」もリニューアル
大倉喜八郎氏は、日本と東洋の古美術品の収集にも力を入れていました。日本の美術品の海外流出を嘆き、50余年に渡って保護・収集に努めたのち、1917(大正6)年に財団法人化して、日本で初めての私立美術館を作りました。関東大震災で被災して復興、第二次世界大戦においては幸運にも空襲を免れ、1928(昭和3)年当時の姿を留めています。
跡を継いだ長男の大倉喜七郎氏は、日本の近代絵画を中心にコレクションを増やし、国宝3件・重要文化財13件・重要美術品44件を含む約2500点の美術品を収蔵しています。
木造のモチーフと耐震防火に配慮した鉄筋コンクリート造という、エキセントリックな外観の建物は、明治から昭和初期にかけての名建築家・伊東忠太氏の設計によるもの。他に、古代インド式の築地本願寺本堂や、湯島聖堂などの作品を残しています。そう聞くと、たしかにどこか共通するものを感じますね。
現在、リニューアルオープン記念として特別に公開されている横山大観の「夜桜」は、必見です。
※この記事は2019年10月31日時点での取材による情報です。