なぜ駅前にギリシャ建築風の街並が生まれたのか?
「大倉山」の名称の由来とは
横浜の中でも上質な住宅街として知られる「大倉山」。昭和初期までは太尾(ふとお)町と呼ばれたごく普通の農村でした。
ここに図書館と研究所を作ろうとした実業家がいました。大倉邦彦といい、紙問屋の社長を務めながら当時珍しかった幼稚園や女学校を創設し、東洋大学の学長を兼任した人物です。
日本の伝統や文化(特に精神文化)を重んじ、社会の役に立つ立派な人間を育てたいと考え、1932(昭和7)年に「大倉精神文化研究所」をつくりました。今でいう私設シンクタンクの先駆けといえるかもしれません。
この研究所の創設に伴なって、「大倉山」と呼ばれるようになりました。
観梅の名所として一躍有名になった大倉山
一方、目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)は研究所の竣工計画に合わせ、より乗客を増やす策として隣接地に梅林を整備しました。1960年代には約1000本以上となり、観梅の臨時急行が出るほどの賑わいだったといいます。後に改称し、大倉山公園と呼ばれるようになりました。
今では敷地は4分の1ほど、梅の木の数は32種類で200本ほどに縮小されましたが、大倉山公園では毎年1月下旬から3月にかけて、長く花を楽しむことができます。毎年2月の土日には「大倉山観梅会」が開催され、野点や筝・尺八などが披露されるなど、市民で賑わいます。梅林への沿道や大倉山記念館周辺に商店街の出店が並んだり、大倉山梅林の梅の実で作った梅酒「梅の薫」の新酒の先行販売なども行われます。
現在は演奏会や市民文化祭などの芸術や文化の拠点に
大倉山精神文化研究所は現在も活動中で、哲学・宗教・歴史などの文献を集めた図書館は一般公開されています。また、建物全体は1981(昭和56)年に横浜市に寄贈され、現在は横浜市の市民利用施設「大倉山記念館」として運営されています。館内の各室は誰でもレンタルすることができ、演奏会や講演会、写真展などが頻繁に催される文化的施設となっています。
また、ギリシャ神殿様式のピロティは、年間30件程度、いろいろなドラマや映画のロケ地として貸し出しが行われています。あるときはNHK朝ドラ『梅ちゃん先生』の学校、またあるときは戦隊ものの秘密基地など、よく登場しています。
白亜の「エルム通り」で商店街活性化
市民に開放された大倉山記念館にちなんで、1988(昭和63)年に駅前の商店街がギリシャ建築洋式を取り入れて街並を統一しました。白亜の「エルム通り」を形成し、大倉山のシンボル的な景観となっています。
コラム:大倉山記念館の建築豆知識
大倉山記念館の正面玄関。建物の意匠はプレヘレニック(ギリシャ以前の)様式に東洋の鳳凰(正面のレリーフ)などを組み合わせ、大倉邦彦氏が掲げた「東西文化の融合」を表現しています。また内部はすべて木造で、天井には東洋を象徴する神社建築の木組みを用いるなど、神社・神道風にも見えますし、キリスト教の教会風にも仏教風にも見えるといったような形に設計されています。
Information
大倉山記念館
所 在 地:横浜市港北区大倉山2-10-1
館時間:9:00~22:00(利用申込受付時間:9:00~21:00)
利用料などのご利用案内は公式ホームページをご覧ください。
URL:http://o-kurayama.com/